2010年 02月 17日
月も上らぬ間に蕎麦手繰る、妄想ごころ T心
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「十二時半にY天寺に行く。どうだ、U月でも行くか」
「それでしたら、まだご一緒したことのないT心にしませんか」
ムスッとした沈黙が気づかないほど短い瞬間与えられる。
その、視覚化された沈黙はサブリミナル効果となり、私の潜在意識に恐怖を植え付ける。
「よかろう。改札でいいんだな」
「あ、はい」
午前中の仕事をやっつけていると、いつの間にか待ち合わせの時間が近づいている。
財布だけ持って慌てて出かける。
小走りでY天寺の駅のそばまで来ると、携帯が鳴動する。
ややや。やはりi氏である。
「十五分、遅れる」
「あ、はい」
するとまたすぐ電話が鳴る。
「タクシーを拾った。N目黒だったな、その蕎麦屋は」
「ええと、Y天寺で待ち合わせているわけですから、N目黒ではありません」
「ふ〜む。店に直接乗り付ける。どこだ?」
「昔の区役所の交叉点のところです」
「それを早く言え」
「あ、はい」
かくして私は、駅から歩き出す。立場のある人の我が儘に振り回される我が身を念う。
K澤通りを越えて必死に歩いていると、何やら殺気を感じさせるタクシーが私を追い越していった。
拙い。あのタクシーにはi氏が乗っているに違いない。
案の定、クルマは元区役所前の交差点で止まる。そして胸板の厚い、トレンチコートの男が降り立つ。
そして辺りを見回す。
そう、そこに私はいなければいけなかったのだ。わずか数十秒の、致命的な遅れ。
気づかぬ間に私は歩みを速め、走り出している。
走る私の姿を認めるi氏。
「君の方が遅いとはな」
それには応えず、私は蕎麦屋のある方向へ歩き出す。
「ここです」
「?、ここは前から蕎麦屋だったな」
「ええ。S本という蕎麦屋でした。T心は、ほぼ居抜きで入った蕎麦屋です」
「うむ」
扉を押して入る。
あの若い奥さんが「いらっしゃいませ」と迎えてくれる。
幸いなことにテーブル席が空いている。私の視線に気づいて、
「どうぞ、テーブル席の方へ」と声をかけてもらう。
お互い冬の装いを解いた後で、i氏が例のブツを取り出す。
「すまんな」
「いえ、何でもありません」
我々は誰にも気づかれぬ間にそのやりとりを終える。
「ビールでも飲むか」
「あ、はい」
お手元の類をセットしにきた奥さんにi氏が注文する。
「ビール。それから鰊と……、卵焼きをもらおう」
「卵焼きは二玉でよろしいですか」
「うむ。二玉で」
瓶ビールが運ばれてくる。グビリと一口。昼酒である。
不味かろうはずがない。
やがて鰊が届く。ここは棒鰊ではない。それが残念である。
あの、ほくっと身を外すあの感じがいいのに。
味は悪くない。
卵焼きは、自分では滅多に頼まない一品なので、新鮮である。
熱々を頬張ると出汁の味が広がる。
大人二人で中瓶一本。あっという間になくなる。
しかし店の勧めをi氏は毅然と断る。
「いや、もうけっこうだ」
もともと昼酒を好まぬi氏。
酔客となって、今日の使命が白日に晒されることも回避したかったのだろう。
「蕎麦を喰おう」
「そうしましょう。私は細引きせいろの大盛りにします」
「何、大盛りとな。さては一枚の量が少ないのだな」
「いや、そんなことはないですよ」
「誤魔化さなくてもよい。私も大盛りだ」
斯くして板蕎麦を思わせるせいろの大盛りが二つ。
私は例によって、山葵だけを乗せてそのままどんどん食べてしまう。
ここの細引きは本当に香りがよろしい。
粗挽きの田舎を凌駕する出来だ。
i氏も最初は何もつけずに蕎麦を手繰る。
「お、なかなかいいではないか」と一言。
しかしもり汁をつけて手繰った途端、評価ががらりと変わる。
「辛い」
汁が辛いと言っているのだ。
蕎麦に汁をつけない私には関係ない。
ま、どちらかという辛いもり汁は好きな方かも知れない。
その時i氏がたとえに出したY蕎麦によく食べに言っていた口だから。
奥さんの手になる、ランチ限定のデザートをいただいて、暇を告げる。
店を出てから、掛け蕎麦もよく食べるのだが、うまく説明できない違和感があるのだと
i氏に告げる。
汁の味と言うよりは、蕎麦の感触と汁の微妙なズレとでも言うか。
開店直後の掛け蕎麦には三葉が添えられていたが、今は椀の中には蕎麦と汁のみである。
二つしか要素が存在しないシンプルさ故に、そのバランスが気になるのだ。
気づけばi氏は私に背を向けたまま、右手を挙げて去っていく。
その大きな背中は、
「分かったような口をきくなっ!」
と怒っているようでもあった。
by mesinosuke
| 2010-02-17 17:39
| ▷soba